プロフィール

 脳性小児麻痺という障がいを持って生まれたわたしの生い立ちから、会社員時代までの道のりを簡単に文字にしてみました。

  • 普通学級の中に入り、障がい者がひとりだけという境遇を乗り越えられた理由。
  • 学生時代に友達から言われた何気ない言葉に感動し、自信が持てたこと。
  • 何故、測定器の製造メーカーでエンジニアとして長年働き続けることができたのか。

 順風満帆な道のりとは行かなかったかもしれませんが、家族や友達をはじめとする周囲の人達の暖かい理解と支援に支えられながら、今のわたしがいることに感謝しています。

脳性小児麻痺

 プロフィールを書く時「脳性小児麻痺」というキーワードは外すことができません。わたしは脳性小児麻痺という病気あるいは障がいを持って生まれてきました。脳性小児麻痺の原因は、胎児期に脳に何らかの障がいを受けた事とされていますが、本当のところは正確にはわかっていないそうです。
 生後半年が経ったころ同居していた母方の祖母が、首の座りが遅いことに気付いたことが切っ掛けだったと聞かされています。両親が大きな病院という病院を駆けずり回り、脳性小児麻痺という病名が判明したそうです。
 手足に麻痺はありましたが自力で歩くこともできましたし、字を書いたり下手ではありましたが絵を書くこともできました。ただ言語障がいがあり初対面の方には、ほとんど話が通じませんでした。
 知能指数には問題ありませんでしたが、小学校は特殊学級に行くように勧められましたが、母の(市の教育委員会への)必死の説得もあり普通の小学校の普通学級に入学する事ができました。

小学・中学生時代

 普通の小学校の普通学級に入ることは出来たのですが、当然ながら回りには障がいを持った友達はいませんでした。「どうして僕だけ障がいがあるの?」「僕もみんなの様になりたい!」と子供ながらにも、悩む日が続いていました。
 そんな中、母と重度障がい者支援施設に見学に行きました。そこには寝たきりで話すことも出来ない子供たちがいました。

こいつら俺を見て笑っている

 まるで「よく来てくれましたね」とでも言うように、綺麗な優しい瞳で笑ってくれました。
 障がいが重いとか軽いとか、そう言う考え方は好きではないけれども、この施設を訪れたことが、わたしの人生の拠り所の一つになった事は確かです。
 いじめはなかったと言えば嘘になるけれども、当時のいじめは今の様な陰湿ないじめとは違いました。友達の中に必ず「止めろよ」と言って、手を差し伸べてくれた友達が必ずいました。わたしを、いじめた友達が涙ながらに「いじめの理由」を話してくれた事もありました。
 運動会や体育祭が近づくとクラスメイトの親御さんから電話がかかってきました。「クラス対抗リレーに出場しないで欲しい」と言われました。足の遅いわたしが走ると最下位になってしまいクラスメイトのモチベーションが下がってしまうからです。それでも「僕が挽回するから一緒に走ろう!」と言ってくれたクラスメイトもいてくれて精一杯はしりましたが、やはり結果は最下位でした。

高校生時代

 中学三年の担任の紹介もあり、私立の普通高校に入学する事が出来ました。高校時代にたいへんだったことは現代国語で天声人語などの新聞一面のコラムを書き写すという課題が出たことです。友達は二、三十分もあれば終わってしまうと言うのですが、字を書くことが遅いわたしの場合は三時間弱かかりました。学校から帰宅して、すぐ書き始めて午後の八時ごろまでかかったと記憶しています。 数学と物理に興味があったので、理系の大学を受験する事にしました。何校か受験したのですが不合格になり、もう後がないと浪人も覚悟していましたが、最後に受験した大学が新設学部だったということもあったのでしょう最後の最後で合格する事が出来ました。
 ただ通学時間が片道だけでも乗り換え時間(西武新宿線の本川越駅から東武東上線の川越市駅まで徒歩)を含めると二時半以上かかりました。

大学時代

 最寄り駅からバスに揺られて約25分。新築の家が建ち並ぶニュータウンを抜けると小高い丘陵が見えてきます。その丘陵の坂道を登ったところに私たちの学校がありました。身動きができない満員のスクールバスの中でも、新緑に包まれた車窓からの風景が新鮮でした。
 数学と物理とコンピューター・サイエンスを主軸においた学科に入ったわたしは解析学を中心に勉強しました。
 大学では「輪講」という講義がありました。私たちのグループは名著と呼ばれている解析学の本を節ごとに勉強してきて順番に一人ずつ発表するという授業でした。
 初めて順番が回ってきた時は緊張しました。黒板に書く字も下手だったし、何より言語障害がありましたから、発表する内容を皆さんが理解してくれるのか?不安で一杯でした。とにかく無我夢中で発表しました。「説明が丁寧で解かりやすかった」と褒めてくれた友達もいて、とても嬉しかったことを覚えています。この時「時間が掛かっても、格好が悪くても懸命に頑張ってさえいれば理解してくれる人が必ずいる。」と確信に、自信に似たようなものを持てた気がしています。
 その後、解析学に興味を持ち一時は数学の研究者になりたいと志したこともありましたが卒業間近になった頃、担当教授から研究者になることは難しいと悟られ、就職活動もろくにしていなかった私は、その教授の紹介で測定器の製造メーカーに入ることが出来ました。

会社員時代

 伊豆踊り子号が下を通る歩道橋を渡ると、中小の会社が建ち並ぶ街並みに様変わりをします。その街並みの中ほどにある4階建ての白い建物が、わたしの勤めていた測定器の製造メーカーでした。
 わたしが入社した時期はアナログからデジタルに移行する時期で、マイクロコンピュータにより測定器を制御することが当面の課題でした。わたしのチームに課せられた仕事は測定器を制御するプログラムを作成する事でした。測定したデータを物理量に変換し、表示・印刷・(パソコンなどとの)通信を制御するプログラムを作成しました。
 手に麻痺があったのでプログラムのコーディングには多少時間が掛かりましたが、アルゴリズムを考える事に時間を費やしたので手の麻痺は、それ程は気になりませんでした。
 チームのリーダーの方やチームの方々が、受け入れてくれた事を今でも感謝しています。わたしの言葉が分からなかった時は、何度でも聞き直してくれたり、細かな配線などはチームの方々がサポートしてくれました。
 「高機能の測定器を作りたい」「ユーザーが使い易い測定器を作りたい」というチームの思いの中には、障がいがあるとかないとか関係ありませんでした。ただ「いい製品を作りたい」そんなチームの中で仕事ができたことを幸せなことだと思っています。
 周りの皆さんに助けられながら27年間、勤続できた事を本当に感謝しています。

(電動)車いすに乗っています

 現在は電動車いすに乗って生活しています。
 車いすに乗るようになった経緯をお話すると、その日はクリスマスも間近な寒い冬の夜でした。会社の帰り道、駅ビルの中にある書店で本を購入してバス停に向かって小走りに歩いていた途中で少しの段差に躓いてしまい、かなりの勢いで転倒してしまいました。一人で立ち上がることができず、その日は交番から自宅に連絡し家族の人に迎えに来てもらいました。
 その時以来、歩行することは出来たのですが長い間歩くことが難しくなってしまいました。市内にある障害者センターでリハビリを受けたのですが改善せず、会社を退職することを余儀なくされました。
 電動車いすを愛用するようになったのは、それから一年後のことでした。いまでは車いすが良き相棒になりました。作業所に通所するときも病院に通院するときも買い物に行くときも、一緒です。

作業所へ通所するときはバスに乗って

 自宅を出てキャベツやブロッコリーなどの畑の間を少し進むと、美術を専攻する学生さんたちが通う大学が見えてきます。その大学発のバスに乗ってJRの駅へと向かいます。バス会社の営業所のある停留所で途中下車し、通りの向かい側にある建物が私が通所している作業所です。
 はじめてバスに乗ることは、不安というか?勇気が必要でした。というのも車いすで乗り降りすることで、バスが遅延(3分から5分ほど)してしまいバスの運転手さんや他のお客様に迷惑をお掛けしてしまうのではないかと考えていました。だから乗り降りする時には今でも必ず「すみません。ありがとうございます。」と声を出す様にしています。
 乗客の方々が通路を作ってくださいます。一旦、降りてくださる方や優しく声をかけてくださる方もいらして、毎日感謝、感謝、感謝です。

車いすに乗って泊まりたいバリアフリーの宿

 車いすに乗るようになった頃は、「もう旅行には行けないだろうな」「旅行に行くことが出来ないのは仕方がないことなんだ」と諦めていました。ですが、車いすに乗って泊まれるバリアフリー対応のホテルや旅館がたくさんあることを知り嬉しくなりました。車いすに乗って泊まれるホテルや旅館の情報を知りたい方が必ずいると思ったことがブログを書き始めた動機です。
 60歳を越えて年齢を重ねるに連れて、ブログを書くことが生きがいになってきた様に感じています。いまでは、このブログをご覧になられた方が安心して車いすに乗ってバリアフリーのホテルや旅館に泊まり楽しんでくださることを勝手に思い描きながら、ブログを書いています。障がいをお持ちの方や車いすで生活している方に残せることは少ないと思いますが、ブログを通じて発信することを続けていきたいと思っています。

まとめ

「もうダメだ、立ち直れない」と思ったことが何度あったことか。その度、家族や友人をはじめとする周囲の人達の暖かい理解と支援に支えられてきました。一人では辿り着けない道でした。家族をはじめ周囲の人達に、心から感謝しています。

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